濱口竜介 『寝ても覚めても』

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「どこが好きなの?」と訊かれて戸惑ったことはないだろうか
相手は恋人でも想い人でも家族でも良い
色々な答えがあると思う
優しいところ、歌声、歩幅を合わせてくれるところ、はにかむ癖、物の考え方、姿勢、初めて会った時に笑いかけてくれた瞬間、店員にありがとうと言うところ、そして「顔」

裏設定ではバクは宇宙人らしい 冒頭、朝子はそんな常人離れした麦と、バイク事故の直後でもキスをしあうような、一心不乱で融和した恋愛を体験する
対して、3.11の前に知り合う亮平はまさしく優しい男であり、麦が消え不安定な朝子をどこまでも受容してくれる

さて、この両者は側から見ていてめちゃめちゃモテそうだ
ここじゃないどこかに連れて行ってくれそうな麦は、この上なく白馬に乗った王子のようだし、亮平は亮平で善良極まりなく、まさに理想の彼氏といった風

この魅力満点最高潮って感じの男二人が、ドンピシャ好みで顔が良い しかも全く同じ顔となったらどうなるだろうかと言うのがこの映画の肝である

この両者を隔てるのはもちろん朝子との個人的な関係性、つまり積み重ねた生活の差なのだろうが、この映画では安易に亮平との「今現在」や「感謝の日々」も、麦との「過去の煌き」や「夢物語」を選択させない
朝子はプロポーズ報告後の席で一度は麦を選び、そして「高速降りたの?」という問いに対しての返答の違いによって手酷く裏切った亮平の元へと帰ってくる
この時、朝子は何を考え、何に気付いたのか

人はいつでも他人を見る時、なんらかのイメージを介している
それは自己であったり、ナンバガの『MANGA SICK』のように「マンガの恋」であったり、社会的に醸成されたレッテル、カテゴライズされた人物像だったりする
これはどんな近しい関係性の人間に対してもそうで、朝子はそれゆえ麦と亮平の間で文字通り右往左往したのだ

この人は"こういう人"だと、自分が生きてきて形作った経験則の"大枠"は、畢竟、他人とのどうしようもない隔絶を自覚させる
わたしとあなたの間には、頭蓋骨、皮膚、粘膜という物理的な壁があり、どんなに触れ合おうがこの壁は絶対に超えられない
バイク事故のキスを観たとき感じたのは、おそらくこの絶対的な障壁を越え、いつでも一体となっているような強烈な感覚が朝子にはあったのだろうということだった

しかし、朝子は亮平の元へ帰るのだ
"繋がっている感覚"も、<堤防の向こう>=<ここじゃないどこか>へ連れていってくれそうな感覚も捨て、亮平との関係性の中に、いや、亮平という人間の中に、顔でも積み重ねでもない「何か」を見出し、無様に彼の元へと向かうのだ
この描き出された「何か」は少なくともこの物語の中では幻想ではない
それは人間個人の真正性であり、朝子が泥にまみれて探し出した猫(じんたん)であり、また亮平が捨てなかった猫なのだ

それにしてもこの物語は、みんな容易く他人に踏み込んで行く
演劇の話でモメるシーンもそうだけど、みんなあんなに正直なんだろうか
この映画に引っ込み思案はいない 朝子もそうで、あまりセリフがなく流されがちだけれど、一貫して自分の気持ちには正直だし、心の擬人化みたいな行動を選ぶ
そして、そんな朝子を取り巻く人たちは、総じて優しく、人を一人の人間として眼差そうとしているように感じた
斜に構えた人間がいないし、他人に対して諦観した態度を取る人間もいない
描かれる"友人"関係がとても暖かく、こうたりたいと思えるものだった


ラストシーン、川を眺める二人の眼差しは、画面を眺める僕らの眼差しと交差する
僕らは他人の中に何を眼差しているのだろうか
寝ても覚めても考えるのは何のことだろう
恋人、自分、それとも


どうでもいいけど、tofubeatsはクラブの挿入歌とEDだけで良かったんじゃないか?
プァ〜〜って入るの結構間抜けだし、ところどころホラーだったぞ そのあとのリフの雰囲気が出したかったんだろうけど……

と、最初は思ったのだけれど、なかなかどうして濱口監督はホラーらしさも狙っていたそうで、あえての演出だということがわかった

まぁ普通に考えたらそうだよね

 

東出と唐田の不倫報道によって、不本意な形で名前が上がってしまった今作

今観るとすれば、「このあとこの人たち不倫するんだよな〜」という気持ちで観たり、東出のどことなく空虚な演技に注目してみるのもいいのかもしれない

インタビューなどの話によれば、濱口監督は徹底的にホン読みをさせるタイプで、役に同化し、没頭しすぎた二人が、あのような道筋を辿ったことを念頭に置いて観ると、なるほど素直さということを改めて考えることに繋がるのではないだろうか

もちろん良い意味でも、悪い意味でも