青春=11.2km/s

おれ、ああいう風には生きられないんだろうなぁ…

トレイ・エドワード・シュルツ 『WAVES』ネタバレ感想

https://filmarks.com/movies/86235/reviews/83302825

 

 

音楽は人生の伴奏をしてくれる

 

楽しいときや辛いときに、気に入った曲、ハマっている曲を爆音で掛けることで、気分はブーストされ、生活は彩られる

そして音楽は、その素晴らしい特性によって、気持ちや考え方を変化させ、ぼんやりとした思考をまとめあげ、意味あるモノに変えてくれたりもするのだ

 


本作は"プレイリストムービー"らしい
ファーストカット、フロリダの海橋を走る車の中でカメラは回転しながら、爆音でかかるanimal collectiveのFloriDada
圧倒的な多幸感の中、カットは次々と切り替わっていく
画面は滑空するようにスライドし続け、ほとんど静止しない
初め、映画はどことなく断片的だ
にも関わらず、場面が変わっても音楽は止まることなく、まるでDJがMIXするように継続して流れ続けていく

MRI検査シーンでかかるASAPのLVLのイントロが、次の瞬間さりげなくmacbookから掛かっているといったシーンが数え切れないほどあるし、そもそもライヴ版とインスト版がMIXされて使われていたりする


この"プレイリスト"には、2010年代のマスターピース級のアーティストばかりが名を連ねているわけだが、彼らのトップヒットした曲ばかりを拾い上げているわけではない

監督は本当にこれらのアーティストの曲を聴き込み、惚れ込んだ上で、物語を構成するためのプロットとして用いている

・A24公式 監督による曲目紹介(英語)
https://a24films.com/notes/2019/12/the-annotated-waves-playlist
・↑の和約記事(Fan voice)
https://fansvoice.jp/2020/03/17/waves-tracks-director-comments/

ただ好きな曲を使いたかっただけでもなく、ただ流行を取り入れて終わりにしたかったわけでもないのが伝わってくる

 

描かれている空気感も非常に素晴らしかった

フロリダの空気という意味でも、若者の音楽と生活の距離感や聴き方という意味でも、リアルに描かれており、現代の映画であることは間違いない


しかし、音楽からプロット、プロットから画、画から人物やストーリーという降り方が見て取れる故に、描写が粗かったり、個々の人物や背景へと視点がフォーカスされきらず、物足りない面があるのも確かだ

ただこれについては、映画の作り方がかなり演繹的かつ様式的なせいもあるだろう
10代の妊娠、父権的な家、部活動と間接の故障
こうした10代っぽいクリシェのオンパレードがあるために、めっちゃ「青春映画」ってコピーライトされてんのだろうか
まぁとりあえず、こうしたことの連なりが起こした悲劇は、「具体的なタイラーたちのエピソード」と捉えるよりも、もっと広く象徴的で、ただ「償えない悲劇」くらいに捉えておくのが、おそらくこの映画が最も良く見えるピントの合わせ方だと思う


テーマや全体の雰囲気は、様式的に、寄せては返す波のように、映画が始まってからデクレッシェンドしていき、中盤からまたクレッシェンドしていく

それに合わせて画角も狭まり、そして元へ戻るのでかなり分かりやすい演出だった


そして映画のピーク

今作で一番贅沢に挿入歌らしい使い方をされているradioheadのTure Love Waitsは、一聴して、離れていく恋人を引き留めるような歌詞のようだ

連れ去った友人は「ルークと父親の歌になっていた」と言っていた
恋愛について書かれた曲が、家族について歌うことだってあるのだ

僕は僕で、「離さないこと」が「Ture Love」に繋がっていく、妹エミリーの思想、カニエ的なアイディア、引いては『WAVES』のテーマ性、監督のアイディアの中心になっているような気がした

そのまま表面的に歌詞や雰囲気だけで曲を選んだのではなく、それらを独自に解釈し、しかも一義的な意味にならないよう上手く取り入れている点に、監督のセンスの良さを感じる


エミリーが映画内で言われる言葉の中に、「NOT MONSTER. NOT EVIL. HE IS A HUMAN BEING.」という台詞があった

"彼"は確かにクソだったかもしれないし、結構考えが足りなすぎるやろみたいなシーンも多くあったが、自己を振り返ってみたとき、誰に彼を「DIS DEVIL DUDE!!」と罵ってSNSで断罪する権利があるのだろうか

あれだけのことをし、罵られるのは仕方のないことなのかもしれない
しかし、監督はわざと過剰とも言える出来事が起こるように仕組んだのだ
ギリギリのラインを狙って
彼のことを知り、関わりを持ってきた人間が彼のことを、あれだけのことがあり、なおも「離さず」にいることこそが肝要であり、赦しであり、愛なのだろう


それはルークにも言える
ルークが父を許したことは、彼があの長い刑期のあと、赦しを得ることであり、エミリーが自己を赦せたということにつながっていったのだ

 

車の中でSZAのPretty Little Birdsが流れている
開け放した窓から半身を出し、腕を使って風に乗る


音楽は、人に、生活に寄り添っている

音楽はあくまで他人の創作物であり、私たちは視聴者でしかない

しかし、ひとたびそれを聴き込み、惚れ込み、理解しようとし、自分のことのように感じ、そしてあくまで他人のモノとして捉えられれば、音楽はあなたの人生を変え、豊かにし、大切な人生の一部となっていくだろう

それと同じように、他人もあなたに寄り添い、近くに存在しているのだ


他人を「離さない」こと
もし、これを愛と呼び、そのように生きるならば、いつか、幾度となく、素敵な瞬間が人生に訪れるはずだ


自転車に乗って立ち、両手を広げて風を切る


その時、きっと私たちはみな、飛んでいるように軽やかだ

胡波 『象は静かに座っている』

https://filmarks.com/movies/81462/reviews/77954866 

 多少加筆した

 

 

 
個人的には2019ベストだけど、強く他人にオススメできるかと言われれば微妙

 

4時間とかなり長丁場になる本作
加えてタルベーラを師と仰いでいるということで、徹底的なオフビートであり、やっぱり「退屈極まりないけど4時間観たことに対する経験」から「これはきっと高尚なのだろう」と高評価になるタイプなのかなと少し不安だった。

 

いきなり他の映画の話をしたい

長回しといえば、入れ替わり立ち替わりに人物が入り乱れたり、特殊な画角でビックリしたりと意外と技巧的なモノも多い
タルベーラのサタンタンゴで推し出されてるワンシーンも、吹き荒ぶ強烈な風の中を男がただ歩くという、視覚的に面白いカットだし、エレファント(ガスヴァンサントのもアランクラークのも)だって、プールサイドや廊下の角での回り込みが楽しく、やはり視覚的に面白いものになっている

 

しかし、この『大象』の映像は限りなく地味だ

事前公開の「どうやって撮っているの?」と銘打たれたyoutubeの動画も別段特殊なことをしているようには見えなく(おそらくカメラを受け渡しているだけ)、視覚的な快楽はほぼ皆無と言っていい
僕らは4時間のあいだ、常に荒寥として寒々しい町を、主人公たちの背中越しに眺め続けることになるが、その主人公たちが見ているはずの先の風景、他人はひたすらピンボケている
もちろんカメラは回り込み続け、何を観ているのかは確かなのだけれど、ほぼ4時間そんな調子なのだ

「切るところがない」ということだったが、正直言って3時間にはできるのかもしれない
まるっきり無駄なシーンがないとは思えないし、省けるところは省けたと思う

 

ただ、もちろんこの『大象』の魅力もこの特徴的な撮り方にあるのは言うまでもない

 

徹底したスローテンポさは、主人公たちが"歩くような速さで"進行し、彼らと僕らの感覚はゆっくりと同期していく

中越しのショットによって得られる効果は、もはやPOVによって得られる効果と同様だろう

画面を見つめているうちに強い現実感を覚えた


春先に公開されていた『ギルティ』では、コールセンターしか映さないという、視覚的な制限をかけることで、音のみの物語に耳を傾けさせ、状況を想像させるギミックがあった


それと似た感覚で、この『大象』には観客の"観方"を操るような巧みなギミックがあるように思う


会話中ですら相手にピントが合っていない画面

それを眺めていることで、「会話は聴いているけれど、それよりも考え込んでしまう」状況を観客とリンクさせる形で描く

「映画を観ているけれど、主人公と同じように考えを巡らせてしまう」という、視線誘導ならぬ、「思考誘導」といってもいいような効果をもたらしているように感じた

 

つまり、ただ4時間あるだけの映画ではないのだ

 

1日の出来事をなるべくリアルに、まるで僕らもその場にいて、彼らの辛さや言語化できない圧迫感、寂寥感、焦燥感を生々しく感じるための4時間、そして画作りなのだと思う

この試みは、最近公開された『1917』にも通ずるところがあるだろう

 

 

話は変わるが、この間、中国人の友人に「満洲里ってどんなところ?」と聞いてみた
彼は北京に住んでいたのだが、「名前は聞いたことあるけど、あんまりイメージないな。モンゴルの有名な建物とかがあるのは知ってるし、不思議なところなのは知ってるけど」とのことだった
この映画の原作では、舞台は台湾だ

なぜ映画で変更がされたのだろうか


僕の検索能力とお粗末語学力では、明快な答えは見つからなかったのだけど、答えはおそらく距離感・スケール感にあるのだと思う
台湾は意外と小さい 中国はデカい
それが一番なのかなと思う


満州里は鉄道の終着駅なのだという
時々乗っていた地元の電車、行ったことのない終点の街
巨大なマトリョーシカを模した建物、日常的に見ることのない場所 決して賑わっている場所でもない


つまるところ『秒速5センチメートル』における栃木に近いのかもしれないし、『ライ麦』におけるコロラドかどこかの田舎のガソリンスタンドなのだろう


個人的な感想だが、原作はかなりサリンジャーっぽいところがある 中上健次っぽいところもあるのかな
だから僕は象=神というのはあまり賛同できなくて、どちらかと言えば 象≒セントラルパークのあひる なんじゃないかという感覚がある

 

棒で突かれても、なおも座っている象
自分たちと同じように、疲れているだろう象
諦観したような、それでいて見透かすような眼を、象がこちらに向ける想像をしてみると、彼のその諦めや疲れややるせなさが、自分のそれとリンクして、理解してくれそうな、自分の何もかもを宥めてくれるような予感がしてこないだろうか

象が座って何を考えているの それを知れたなら、何か大切なものを得られるのではないか

ずっと何もかもが憎らしく、我慢ならないし、破壊したくなるけれど、それよりもただひたすらに、どうしようもなく辛い

どこにいても、何をしていても、いっさいがうまくいかなくて、何かに当たって、誰も彼も聖人ではないから、少しずつぶちまけて、他のところでバランスをとって、なんとかなんとか生き延びている

それがいつの間にかすれ違い、すれ違いが積み重なり、僕らそれぞれに破滅をもたらすのだ

そしてそれが我慢できなくなったときに、きっと僕らは会いたくなるのだ

象のようなもの

圧倒的なケアラーに 

 

"誰か"を殺したくなってしまうような気持ちを否応なく思い出せられてしまった
やっぱ人間をぶん殴る時は金属バットに限るなあ


まぁ、しかし何もかもを破壊してしまう破壊衝動は、同級生の蛮行として幕切れを迎え、きっちり片付けられる

この辺りはもちろん暴力の虚しさでもあるし、傲りについての話でもあるし、そして本当に胡波監督の優しさだと思う

 

映画では原作と異なる終わり方をする


最後の叫びは、僕らを引き裂かんばかりの叫びなのか、それとも希望のラッパなのか明確な答えは出せなかった

が、それでもやはり、訳もわからず涙してしまうような、そんな何かを湛えた咆哮だったのは確かだ

 

岩井俊二『リップヴァンウィンクルの花嫁』

https://filmarks.com/movies/65426/reviews/22881465

 

 

16/10/02
人に勧めにくいけど、優しくて良い映画だった コメディ

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再視聴

人生ベスト(ベストはいくつかある)


初めて黒木華を知ったのがこの映画で、それこそ最初の印象は「なんやこのパッとしなくてどんくさい女は…」で、「岩井俊二は本当に感じだけで生きてる女が好きだな…」と思っていた

この映画を観ていて、「結局別れさせ屋を仕組んだのは誰だったのか」といったような細部に目がいってしまうかもしれないが、実はそういった細部はさほど重要ではないような気がする

長尺の映画の多くが、常に複数のことを語ろうとするように、この映画でもひとつのシーンごとが複数性をもち、どんな感情でどんなモノを描いているのかわざと確定しないような描き方をしている
悲壮なシーンも悲壮で終わらないように絶対に笑いどころやツッコミどころを入れているし、ある意味で観客を観客として留めておきたいような意思を感じる

それはこの映画が移入する構造的な物語というより、散文詩的な表現方法が散りばめられた岩井俊二の人生観のかたまりだからではないだろうか


この映画のタイトル、リップヴァンウィンクルの花嫁とは誰だったのか?

リップヴァンウィンクルは真白(Cocco)のHNだった
真白=リップヴァンウィンクルとすると、タイトルはその花嫁として踊った皆川七海(黒木華)のことを指すだろう

そもそもリップヴァンウィンクルとは、その名の少女が小人に美味い酒をもらって遊んでいたら、浦島太郎のように何十年も経ってしまっていた、という話だが、上記に当てはめて寓話の意味を考えると、いささか輪郭がぼやけてしまう気もする

今回再び観てみて、真白はリップヴァンではなく、むしろ「リップヴァンウィンクルの花嫁」であって、リップヴァンだったのは皆川七海の方だったのではないかと考えた


"自分を持たず流されて生きている"皆川七海

映画を観ればわかると思うが、最終的に皆川七海は、別に自分らしさを獲得したり、流されて生きるのをやめたりしない

皆川七海は、ドラマ版では初めてAVを観て参ってしまうし、極めて自己肯定感も低い
気づけば結婚適齢期で、思いつきで彼氏を作る
結婚生活後はエプロンを締め、不審な来客にもコーヒーを煎れる
なんとなく自分の"普通じゃなさ"、レールや枠から外れてしまっていることを意識していて、常に社会的に大事だと思われている"普通"の範囲内に自分を規定しようとしている

しかし、彼女はランバラル(綾野剛)のおかげで真白と出会う
彼については後述するが、ひとまず七海は真白とともに夢の中のような日々を過ごし、沈んでいた心を回復していく

しかし、結局真白は自殺を選ぶ
パーティの時間は終わってしまうのだ。本当のリップヴァンウィンクルである七海は、現実世界にへと戻っていく

ラストシーン、見晴らしの良い小さな部屋で彼女はまた一人暮らしを始める彼女は気付いている
かつてと様変わりした現実に、目に映る世界の色に


初めは鈍臭く、地味な印象しかなかった七海が、3時間かけて回復し、目に光が宿り、生気を獲得していく姿は、とても魅力的で凄まじい肯定感があった


さてランバラル(綾野剛)についてだが、
最初この映画を観た時、レビューとか考察をいくつか読んだのだが、綾野剛はインターネットの暗喩だという話があった
表現の割に頭でっかちなメタファーの仕方だなぁと感じたけれど、実はけっこうこのメタファーとしてのキャラという考え方だけはしっくりきていて、読み取りの助けになった気がする

インターネットに限らずとも、人生、生きているうち自分の見ていないところで様々なことが起きている
いろいろなことが噛み合って自分の制御できないところで何かが起こり、それに流されて生きていく
漫然と生きようが、自己でそれを選択していようが(または選択しているつもりになろうが)、自分の埒外の場所でも他人と他人は関わり合って、物事を動かし、回り回って自分の人生に影響を与えるのだ
それは良いことも悪いことも運んでくる

こうした構造を映画としてやって物語に組み込むと、いささかご都合主義になってしまうところを、こうやって一人のキャラクターとして展開させているのかなと考えると、結構上手くいっているように思う

そう考えると、明るい"リップヴァンウィンクル"の寓話のように転がっていくこの映画全体の構造は、岩井俊二の祈り、こうあって欲しいという願い、愛なのだろう

そして、真白が死の前夜に話したこと、それらがすべて優しくて、何か信じられなくなったときに、もうちょっとだけ、自分が思っているよりも少しだけ、世界は少しだけ優しく出来ていることを確認したくなったとき、信じたくなったとき、たぶんまた俺は3時間かけてこの映画を観るんだろうなと思う

ナ・ホンジン 『コクソン』

https://filmarks.com/movies/68546/reviews/52172892

 

 

韓国カルトホラー!祈祷シーンがかっこいい!

映画『来る』のドンドコお祓いシーンでも、ハチャメチャ踊っている人がいたけれど、あれもハングルが書いてあるのに気づいた

韓国特有のお祓い法っぽい

チャン・ジェヒョン『プリースト悪魔を葬るもの』でも、同じよう描写があった

韓国ホラー好きにはぜひ!

 

↓考察 でも今見るとあんまりいい考察ではないな……ワラ

 

さてさて、こういう類いのミスリード満点な映画は嘘ばかりつきます。
唯一嘘をつかないのは何かといえば、基本的に映画外で発される監督の発言でしょう

軽くググっただけでも監督はインタビューにて、特に宗教的信仰や神についての話をしていることがわかります。


"「犯人」は明快だが、「解説」は自由な結末 を目指した"という監督。

映画内でも最終的にハッキリと、ムミョンが「善」であり、余所者の國村隼が「悪」であることは提示されますが、序盤中盤がミスリード満載なために観客はそれを信じることができません。
しかし、これについてはインタビューでも監督が明言はしているため、「余所者」が諸悪の根源であることは間違いないと考えて良いでしょう。

さて、「解説は自由ながら犯人が明確な映画」とはどういうことでしょうか?
私は監督がいう"解説"とは作品が伝えるメッセージを「どう受け取るか」であると思います。
一般に「解釈は観客に委ねる」と言われると、誰が犯人なのか、なぜそれが行われたのか、という物語構造部分の解釈が委ねられているんだと思ってしまいます。
しかし犯人は明確である。「答え」は「余所者が犯人」なのです。つまり、これは少なくとも「who done it?」を解きほぐす映画ではありません。この映画において、「なにが嘘で、なにが本当で、事実はどうだったのか?」ということは重要ではないのです。
そのことを起点にして考えると、カメラに写っていることは全て事実であるということがわかります。悪魔は余所者であり、全てのシーンの超常現象は実際に起こっていて、いずれかのシーンが「実は幻覚だった」のようなミスリードは展開されていません。
登場人物たちは、人を欺くシーンでは嘘を吐き、人に何かを伝えるシーンでは本心を吐露している、わりと素直な映画であることがわかります。


この映画でいちばんの肝は洞窟で余所者と対峙するシーンでしょう。
彼は言います。「お前は確認するためにここにきたんだろう」
イサムとの問答の中では、イサムの確認したかった「余所者の答え」や客観的事実はが確認できませんでした。
結果的に余所者は悪魔であることを明かしますが、彼は聖書を引用し、肉体を持ち、驚くべきことにその手のひらには聖痕すらあるのです。
ここから分かるのは、「何かを信じるための客観的事実などは存在しないということ」であり、私はこれこそが監督が提示した「メッセージ」なのだと思います。
キリストがキリストである証拠(肉体と骨を持つことやstigmaの存在)すら、この映画の中では意味を持ちません。聖書に書かれていることですらエビデンスにはならないということへの反証として、肉体のある悪魔が存在しているのです。

また、イサムがそうであったように、何かが疑わしいとき、私たちは証拠の発見に縋りつこうします。この映画は、物語の構造を通して私たちにそれを自覚させます。
監督は“絶対答えを探すことはできない極限の混沌を直接体験するように、映画を作りました。”とも言っています。
わざと物語を『藪の中』のようにして、曖昧で食い違う点や説明しきれない点を残すことで、観客が「躍起になって確証を求める」のを促しているのです。

余所者は「私が何を言っても信じないだろう。お前が言ったじゃないか。私が悪魔だと」と言いました。
このセリフの通り、確証を求めた私たちはそれぞれが信じたいと思った結論を信じていくことになるわけです。

この構造ヤバくないですか?僕はナ・ホンジン監督イカれてるんか天才かと思って軽く引きました。


私たちは何かを確認できないままに信じることしかできないのです。
しかし、これは逆説的に「信じることは事実である」という救いでもあります。
監督は、前作や前々作の制作を通して、ひどい事件のあと残された人たちは何を信じたらいいのか、神はいるのかということを考えるようになったと言っています。
聖書の内容と反するようなこと(ひどい事件が降りかかったこと)によって、神の存在を信じられなくなり絶望してしまった人たち対しては、「それでも信じれば神はいる」ということを提示するのは福音でしょう。


「お前が求めてる"信じるにたる客観的事実"など存在しないんだよ」というクソ痛烈なメッセージを前にして、あなたはどんな結論を出したでしょうか?

イサムのように「絶対に違う」と受け入れなくても良いし、受け止めた上で「人を信じることは難しい」でも、「人も神も信じられるものなどない」でも、「神を信じるものは救われる」でもなんでも良いのです。
この映画の「解説」、つまるところ「感想」は自由です。
出した答えは真実であり、それをどう語るかが大事なんじゃないかなと思います。

あ、あとYouTubeに韓国の芸能ニュースかなんかで流れた未公開シーンが上がってたはずです ラストのあと、祈祷師の車に國村隼が乗ってどこかへ行くシーンとか、森の中で女と國村隼が戦うシーンとか


以下蛇足
「この話は宗教の話なんてしてないよ〜」という論調のマジックマッシュルーム説は、個人的に一番映画としておもんない解釈の仕方だと思うので言及しておきます。
インタビューなどで「善」「悪」の存在とその対立構造について明示されてあるので、前提としてアレなのですが、今作で、もし科学的根拠が絶対的な答えだとするなら、その答えが明言されるシーンを最後に持って来なければ意味がありません。
そうすれば「客観的事実があるのに善悪と信頼と不信の間で翻弄される人間」を描ききれるからです。
仮に監督がマジックマッシュルーム説を「答え」としていた場合、、あの洞窟のシーンのセリフも、登場人物の心情の吐露も、ましてヨブ記の引用までがミスリードとしての材料でしかならなくなってしまいます。構造部分でしかモノを言わない、言ってしまえばネットの考察見るだけで完結する、映画として全く意味のないモノになってしまいます。それはヴーンなんだかなぁ、とやっぱり個人的には面白くないなと思いますね

関根光才 『生きてるだけで、愛』

https://filmarks.com/movies/78260/reviews/66918925

 

 

過眠になると日々が驚くべき速さで進行していく
単純な話、普通の人は24時間中17時間ほど活動しているところを、12時間以下で過ごすことが多いからだ

 

生活のほとんどを津奈木に仮託しているため、最低限衣食住はどうにかなっている寧子だが、それらが保証されたくらいで軽やかになってくれないのが人生だ

津奈木も津奈木で、父性を発揮して寧子を扶養しているだけではない
仕事での問題や寧子のことで磨り減る神経は、無感情に見過ごしやり過ごすことで、同じくただ回転する日々を送っている

 

この辺は意見も割れるところな気がするが、僕は「いいよ味噌なしで」という返信はキツいなぁと感じた

まず「味噌のない味噌汁ってなんだよ」ってブチギレてしまうと思う


ちゃんとやりたいのだ、寧子は


それを嘲笑うかのように立て続けに起こった不幸に悲しんでいる最中に、このセリフは厳しいものがあると思う
津奈木の不理解を象徴する、やり過ごすような「優しいだけの言葉」だと感じているように思えた


寧子が求めているのは「一緒に疲れてほしい」のであって、ここで求めていたのは甘さや優しい言葉ではなく、例えば「味噌買ってくよ」といったような、自分と二人三脚でゼイゼイ息を切らしてくれる行為ではないだろうか
ていうかアレが愛ならタバコ吸わねえだろ直後に……

 

中盤に差し掛かるあたりで、おそらくほとんどの視聴者が、寧子の神経衰弱の理由を「ウォシュレットって恐いですよね」に見出すと思う


自分が気にしていることを他人が気にしていないということ


他人との違い、そしてその違いへの無理解


「外に出たら隕石に当たって死ぬかもしれない」と本気で恐れている人もいるのだ
「気にしすぎでしょ」と思うかもしれない
まさにその無理解の隔たりが他人との距離なのだ


そして「大丈夫になれそう」と思っていた寧子も、「いや、ウォシュレット恐くない」と言われることで、普通の人たちとは自分の生きている土台が異なっているということを否が応でも自覚させられるという、しんどさ、絶望感


いつも惨めな気持ちで生きるのは疲れるよな

 

ぶっちゃけた話、セリフはかなり説明的で全部言葉にしすぎるきらいも間違いなくあったし、元カノはただのイカレでトリガーとしてしか描かれておらず、普通の他人は不理解しか示さない割に社会包摂に対してあまりにも熱心だし、画面もどっかで見たことあるような感が拭えず、一番の見せ場だった走り出すシーンもどうしても尺が短いような気がしてどうかと思ったが、なんというか『秒速5センチメートル』の仕事を辞めた主人公がエレベーター内で鍵を取り落としてキツくなるシーンのような、共感を誘う描写は良く出来ていたように思う

 

だから「しんどさ」を考える映画としてはうまく機能しているんだと思うし、それ故にわりかし高評価になっているんだと思う


役者の力もかなり大きい 主演の2人以外もかなり良い演技だった
劇伴も主題歌もマジでかなり良く、映画の好印象に一役買っている

 

それにしたってwikipediaには「躁鬱病を抱え、過眠に悩まされている女の自立への過程も描かれており」と書かれていたけれど、これはどうなんだろう


自立したのだろうか 結局できてなくないか?
あまりにも救いがなさすぎる


一瞬だけ心が通じ合うような、そんな煌めく瞬間がある それ以外は生きているだけでしんどいんだと思う

実際そうだ
でも俺はその瞬間だけに賭け、生きる価値の全てを受け渡すことはできない

 

 

…………
イカレでポッと出な元カノが現れなかったら、この話はどうなったのだろう

 

俺には見える
一人暮らしの汚部屋で、一日12時間以上寝て過ごす素寒貧のずっと終わっている俺には、二人がゆっくりと破綻して、部屋で腐乱死体となった津奈木と寧子の姿が見えるのだ

願わくばこれを観た人たちが、なにもかも分かり合えないことを解り、それでも触れることを諦めず、弱った他人を包摂し、彼らの荷物を分け合い、そしてその人を立ち上がらせてくれますように

 

 

クソどうでもいいけど、ここのレビュー読んでると結構変な気分になる

「タバコは嗜好品だから!ニートなのに!」とか、津奈木に寄生してるとはいえ、じゃあ寧子は紅茶やコーヒーも飲まず最低限の飯だけ食って家で寝てればいいんだろうか

人間なのに

その制限下で快復すると思うか?と思うし、 「私の方がひどかったし甘えんなって思った」とか、この映画ちゃんと観た上でそのセリフ吐けるのか〜〜とか思う

まぁこういうレビューの無理解さも、レビュー書いた人の厳しさの価値観について俺が理解できないのも、どっちも「分かり合えないこと」のうちのひとつなんだろう かなしいね……

 

今泉力也『愛がなんだ』

https://filmarks.com/movies/79781/reviews/66482819

 

 

幸せに恋愛をして、幸せな家庭を作る


平成の"幸せ"、そして"愛"のモデルケースは、無意識のうちに私たちに影響を与えている


それゆえ周りには、熱烈な愛(恋愛)というポジティブな情動に支えられた物語も多く存在していているが、私たちの現実には、漂白された出会い系、切れ切れに点在するサードプレイスなどにより、テルコと守の関係のような、ぬったりとして形を得ず、捉えきれない関係性が確かに存在している

 

守は別に「自分が世界の中心」というタイプでもない
自分に自信がないというと少し違う気もするが、誰かに好かれる理由が自分に見当たらないため、テルコが自分に好意を寄せているとは思い至らない


守にとってのテルコとは、ああいった近しい距離感の人間でしかなく、それ以上でも以下でもないのだ

そしてなにより、漠然とした不安を和らげる緩衝材であり、自己の承認を"求める"対象ではない

 

対して特に序盤のテルコは嬉しさを全く隠そうとしないほど、守に入れ込んでいる
頼まれてもいないカビキラーを買っていくテルコ、「二人用」の文字がとても特別にきらめいて見えるテルコ

 

この関係性をセフレだとか無償の愛だとかの、それこそ前述のモデルケースのような、既知の枠組みに押し込めて理解してしまってもいいが、それではあまりにも取りこぼしが多すぎるように思う
守は別にただヤリたいだけでもないし、二人とも「都合のいい関係」だと思って相手を利用しているわけじゃない
二人とも自分のことばかり見ている嫌いもあるが、相手のことを全く考えていないわけでもない

 

テルコは好意に奔走することが人生だと思い込み、守は付き合い始めや微妙な関係の楽しさによって人生の寂しさを均している


二人とも承認が欲しいわけではない ただ何かを埋めたいだけなのだと思う
そういった形の欲求が、複雑に好意と混ざった結果なのだと思う

 

この寂しさや虚無を起点とする感情は悪なのだろうか


スミレが河口湖の別荘で中原たちの関係を糾弾したとき、中原がコンビニの駐車場で声を震わせたとき、その根底には"正しき恋愛と幸せ"の影がちらついていたはずで、そういったモノに対してテルコは「"愛"がなんだ」と罵倒したのだ

 

結局のところ、中原・葉子のように自己の価値や、既知の枠組みを用いることで、経験的に答えを出すのが良いのか、守・テルコのように納得するまでそれぞれ奔走するのが良いのかという答えは鑑賞者の手に委ねられる


なんにせよ"愛"に真っ向から対立し、新たな定義や生々しい感情に向き合ったこの映画は、承認というキーワードを捨てた"ポスト承認欲求"の映画として瑞々しく成立している


蛇足気味だけど、すごく劇伴が良かった あと冒頭のカット割りとかイカした画もかなり多い
深川麻衣さ〜〜〜〜〜〜ん!!!!!!!!かわいいね!!!!!!!!!!!!!!!!

濱口竜介 『寝ても覚めても』

https://filmarks.com/movies/75124/reviews/66343344

 

 

「どこが好きなの?」と訊かれて戸惑ったことはないだろうか
相手は恋人でも想い人でも家族でも良い
色々な答えがあると思う
優しいところ、歌声、歩幅を合わせてくれるところ、はにかむ癖、物の考え方、姿勢、初めて会った時に笑いかけてくれた瞬間、店員にありがとうと言うところ、そして「顔」

裏設定ではバクは宇宙人らしい 冒頭、朝子はそんな常人離れした麦と、バイク事故の直後でもキスをしあうような、一心不乱で融和した恋愛を体験する
対して、3.11の前に知り合う亮平はまさしく優しい男であり、麦が消え不安定な朝子をどこまでも受容してくれる

さて、この両者は側から見ていてめちゃめちゃモテそうだ
ここじゃないどこかに連れて行ってくれそうな麦は、この上なく白馬に乗った王子のようだし、亮平は亮平で善良極まりなく、まさに理想の彼氏といった風

この魅力満点最高潮って感じの男二人が、ドンピシャ好みで顔が良い しかも全く同じ顔となったらどうなるだろうかと言うのがこの映画の肝である

この両者を隔てるのはもちろん朝子との個人的な関係性、つまり積み重ねた生活の差なのだろうが、この映画では安易に亮平との「今現在」や「感謝の日々」も、麦との「過去の煌き」や「夢物語」を選択させない
朝子はプロポーズ報告後の席で一度は麦を選び、そして「高速降りたの?」という問いに対しての返答の違いによって手酷く裏切った亮平の元へと帰ってくる
この時、朝子は何を考え、何に気付いたのか

人はいつでも他人を見る時、なんらかのイメージを介している
それは自己であったり、ナンバガの『MANGA SICK』のように「マンガの恋」であったり、社会的に醸成されたレッテル、カテゴライズされた人物像だったりする
これはどんな近しい関係性の人間に対してもそうで、朝子はそれゆえ麦と亮平の間で文字通り右往左往したのだ

この人は"こういう人"だと、自分が生きてきて形作った経験則の"大枠"は、畢竟、他人とのどうしようもない隔絶を自覚させる
わたしとあなたの間には、頭蓋骨、皮膚、粘膜という物理的な壁があり、どんなに触れ合おうがこの壁は絶対に超えられない
バイク事故のキスを観たとき感じたのは、おそらくこの絶対的な障壁を越え、いつでも一体となっているような強烈な感覚が朝子にはあったのだろうということだった

しかし、朝子は亮平の元へ帰るのだ
"繋がっている感覚"も、<堤防の向こう>=<ここじゃないどこか>へ連れていってくれそうな感覚も捨て、亮平との関係性の中に、いや、亮平という人間の中に、顔でも積み重ねでもない「何か」を見出し、無様に彼の元へと向かうのだ
この描き出された「何か」は少なくともこの物語の中では幻想ではない
それは人間個人の真正性であり、朝子が泥にまみれて探し出した猫(じんたん)であり、また亮平が捨てなかった猫なのだ

それにしてもこの物語は、みんな容易く他人に踏み込んで行く
演劇の話でモメるシーンもそうだけど、みんなあんなに正直なんだろうか
この映画に引っ込み思案はいない 朝子もそうで、あまりセリフがなく流されがちだけれど、一貫して自分の気持ちには正直だし、心の擬人化みたいな行動を選ぶ
そして、そんな朝子を取り巻く人たちは、総じて優しく、人を一人の人間として眼差そうとしているように感じた
斜に構えた人間がいないし、他人に対して諦観した態度を取る人間もいない
描かれる"友人"関係がとても暖かく、こうたりたいと思えるものだった


ラストシーン、川を眺める二人の眼差しは、画面を眺める僕らの眼差しと交差する
僕らは他人の中に何を眼差しているのだろうか
寝ても覚めても考えるのは何のことだろう
恋人、自分、それとも


どうでもいいけど、tofubeatsはクラブの挿入歌とEDだけで良かったんじゃないか?
プァ〜〜って入るの結構間抜けだし、ところどころホラーだったぞ そのあとのリフの雰囲気が出したかったんだろうけど……

と、最初は思ったのだけれど、なかなかどうして濱口監督はホラーらしさも狙っていたそうで、あえての演出だということがわかった

まぁ普通に考えたらそうだよね

 

東出と唐田の不倫報道によって、不本意な形で名前が上がってしまった今作

今観るとすれば、「このあとこの人たち不倫するんだよな〜」という気持ちで観たり、東出のどことなく空虚な演技に注目してみるのもいいのかもしれない

インタビューなどの話によれば、濱口監督は徹底的にホン読みをさせるタイプで、役に同化し、没頭しすぎた二人が、あのような道筋を辿ったことを念頭に置いて観ると、なるほど素直さということを改めて考えることに繋がるのではないだろうか

もちろん良い意味でも、悪い意味でも