ナ・ホンジン 『コクソン』

https://filmarks.com/movies/68546/reviews/52172892

 

 

韓国カルトホラー!祈祷シーンがかっこいい!

映画『来る』のドンドコお祓いシーンでも、ハチャメチャ踊っている人がいたけれど、あれもハングルが書いてあるのに気づいた

韓国特有のお祓い法っぽい

チャン・ジェヒョン『プリースト悪魔を葬るもの』でも、同じよう描写があった

韓国ホラー好きにはぜひ!

 

↓考察 でも今見るとあんまりいい考察ではないな……ワラ

 

さてさて、こういう類いのミスリード満点な映画は嘘ばかりつきます。
唯一嘘をつかないのは何かといえば、基本的に映画外で発される監督の発言でしょう

軽くググっただけでも監督はインタビューにて、特に宗教的信仰や神についての話をしていることがわかります。


"「犯人」は明快だが、「解説」は自由な結末 を目指した"という監督。

映画内でも最終的にハッキリと、ムミョンが「善」であり、余所者の國村隼が「悪」であることは提示されますが、序盤中盤がミスリード満載なために観客はそれを信じることができません。
しかし、これについてはインタビューでも監督が明言はしているため、「余所者」が諸悪の根源であることは間違いないと考えて良いでしょう。

さて、「解説は自由ながら犯人が明確な映画」とはどういうことでしょうか?
私は監督がいう"解説"とは作品が伝えるメッセージを「どう受け取るか」であると思います。
一般に「解釈は観客に委ねる」と言われると、誰が犯人なのか、なぜそれが行われたのか、という物語構造部分の解釈が委ねられているんだと思ってしまいます。
しかし犯人は明確である。「答え」は「余所者が犯人」なのです。つまり、これは少なくとも「who done it?」を解きほぐす映画ではありません。この映画において、「なにが嘘で、なにが本当で、事実はどうだったのか?」ということは重要ではないのです。
そのことを起点にして考えると、カメラに写っていることは全て事実であるということがわかります。悪魔は余所者であり、全てのシーンの超常現象は実際に起こっていて、いずれかのシーンが「実は幻覚だった」のようなミスリードは展開されていません。
登場人物たちは、人を欺くシーンでは嘘を吐き、人に何かを伝えるシーンでは本心を吐露している、わりと素直な映画であることがわかります。


この映画でいちばんの肝は洞窟で余所者と対峙するシーンでしょう。
彼は言います。「お前は確認するためにここにきたんだろう」
イサムとの問答の中では、イサムの確認したかった「余所者の答え」や客観的事実はが確認できませんでした。
結果的に余所者は悪魔であることを明かしますが、彼は聖書を引用し、肉体を持ち、驚くべきことにその手のひらには聖痕すらあるのです。
ここから分かるのは、「何かを信じるための客観的事実などは存在しないということ」であり、私はこれこそが監督が提示した「メッセージ」なのだと思います。
キリストがキリストである証拠(肉体と骨を持つことやstigmaの存在)すら、この映画の中では意味を持ちません。聖書に書かれていることですらエビデンスにはならないということへの反証として、肉体のある悪魔が存在しているのです。

また、イサムがそうであったように、何かが疑わしいとき、私たちは証拠の発見に縋りつこうします。この映画は、物語の構造を通して私たちにそれを自覚させます。
監督は“絶対答えを探すことはできない極限の混沌を直接体験するように、映画を作りました。”とも言っています。
わざと物語を『藪の中』のようにして、曖昧で食い違う点や説明しきれない点を残すことで、観客が「躍起になって確証を求める」のを促しているのです。

余所者は「私が何を言っても信じないだろう。お前が言ったじゃないか。私が悪魔だと」と言いました。
このセリフの通り、確証を求めた私たちはそれぞれが信じたいと思った結論を信じていくことになるわけです。

この構造ヤバくないですか?僕はナ・ホンジン監督イカれてるんか天才かと思って軽く引きました。


私たちは何かを確認できないままに信じることしかできないのです。
しかし、これは逆説的に「信じることは事実である」という救いでもあります。
監督は、前作や前々作の制作を通して、ひどい事件のあと残された人たちは何を信じたらいいのか、神はいるのかということを考えるようになったと言っています。
聖書の内容と反するようなこと(ひどい事件が降りかかったこと)によって、神の存在を信じられなくなり絶望してしまった人たち対しては、「それでも信じれば神はいる」ということを提示するのは福音でしょう。


「お前が求めてる"信じるにたる客観的事実"など存在しないんだよ」というクソ痛烈なメッセージを前にして、あなたはどんな結論を出したでしょうか?

イサムのように「絶対に違う」と受け入れなくても良いし、受け止めた上で「人を信じることは難しい」でも、「人も神も信じられるものなどない」でも、「神を信じるものは救われる」でもなんでも良いのです。
この映画の「解説」、つまるところ「感想」は自由です。
出した答えは真実であり、それをどう語るかが大事なんじゃないかなと思います。

あ、あとYouTubeに韓国の芸能ニュースかなんかで流れた未公開シーンが上がってたはずです ラストのあと、祈祷師の車に國村隼が乗ってどこかへ行くシーンとか、森の中で女と國村隼が戦うシーンとか


以下蛇足
「この話は宗教の話なんてしてないよ〜」という論調のマジックマッシュルーム説は、個人的に一番映画としておもんない解釈の仕方だと思うので言及しておきます。
インタビューなどで「善」「悪」の存在とその対立構造について明示されてあるので、前提としてアレなのですが、今作で、もし科学的根拠が絶対的な答えだとするなら、その答えが明言されるシーンを最後に持って来なければ意味がありません。
そうすれば「客観的事実があるのに善悪と信頼と不信の間で翻弄される人間」を描ききれるからです。
仮に監督がマジックマッシュルーム説を「答え」としていた場合、、あの洞窟のシーンのセリフも、登場人物の心情の吐露も、ましてヨブ記の引用までがミスリードとしての材料でしかならなくなってしまいます。構造部分でしかモノを言わない、言ってしまえばネットの考察見るだけで完結する、映画として全く意味のないモノになってしまいます。それはヴーンなんだかなぁ、とやっぱり個人的には面白くないなと思いますね