胡波 『象は静かに座っている』

https://filmarks.com/movies/81462/reviews/77954866 

 多少加筆した

 

 

 
個人的には2019ベストだけど、強く他人にオススメできるかと言われれば微妙

 

4時間とかなり長丁場になる本作
加えてタルベーラを師と仰いでいるということで、徹底的なオフビートであり、やっぱり「退屈極まりないけど4時間観たことに対する経験」から「これはきっと高尚なのだろう」と高評価になるタイプなのかなと少し不安だった。

 

いきなり他の映画の話をしたい

長回しといえば、入れ替わり立ち替わりに人物が入り乱れたり、特殊な画角でビックリしたりと意外と技巧的なモノも多い
タルベーラのサタンタンゴで推し出されてるワンシーンも、吹き荒ぶ強烈な風の中を男がただ歩くという、視覚的に面白いカットだし、エレファント(ガスヴァンサントのもアランクラークのも)だって、プールサイドや廊下の角での回り込みが楽しく、やはり視覚的に面白いものになっている

 

しかし、この『大象』の映像は限りなく地味だ

事前公開の「どうやって撮っているの?」と銘打たれたyoutubeの動画も別段特殊なことをしているようには見えなく(おそらくカメラを受け渡しているだけ)、視覚的な快楽はほぼ皆無と言っていい
僕らは4時間のあいだ、常に荒寥として寒々しい町を、主人公たちの背中越しに眺め続けることになるが、その主人公たちが見ているはずの先の風景、他人はひたすらピンボケている
もちろんカメラは回り込み続け、何を観ているのかは確かなのだけれど、ほぼ4時間そんな調子なのだ

「切るところがない」ということだったが、正直言って3時間にはできるのかもしれない
まるっきり無駄なシーンがないとは思えないし、省けるところは省けたと思う

 

ただ、もちろんこの『大象』の魅力もこの特徴的な撮り方にあるのは言うまでもない

 

徹底したスローテンポさは、主人公たちが"歩くような速さで"進行し、彼らと僕らの感覚はゆっくりと同期していく

中越しのショットによって得られる効果は、もはやPOVによって得られる効果と同様だろう

画面を見つめているうちに強い現実感を覚えた


春先に公開されていた『ギルティ』では、コールセンターしか映さないという、視覚的な制限をかけることで、音のみの物語に耳を傾けさせ、状況を想像させるギミックがあった


それと似た感覚で、この『大象』には観客の"観方"を操るような巧みなギミックがあるように思う


会話中ですら相手にピントが合っていない画面

それを眺めていることで、「会話は聴いているけれど、それよりも考え込んでしまう」状況を観客とリンクさせる形で描く

「映画を観ているけれど、主人公と同じように考えを巡らせてしまう」という、視線誘導ならぬ、「思考誘導」といってもいいような効果をもたらしているように感じた

 

つまり、ただ4時間あるだけの映画ではないのだ

 

1日の出来事をなるべくリアルに、まるで僕らもその場にいて、彼らの辛さや言語化できない圧迫感、寂寥感、焦燥感を生々しく感じるための4時間、そして画作りなのだと思う

この試みは、最近公開された『1917』にも通ずるところがあるだろう

 

 

話は変わるが、この間、中国人の友人に「満洲里ってどんなところ?」と聞いてみた
彼は北京に住んでいたのだが、「名前は聞いたことあるけど、あんまりイメージないな。モンゴルの有名な建物とかがあるのは知ってるし、不思議なところなのは知ってるけど」とのことだった
この映画の原作では、舞台は台湾だ

なぜ映画で変更がされたのだろうか


僕の検索能力とお粗末語学力では、明快な答えは見つからなかったのだけど、答えはおそらく距離感・スケール感にあるのだと思う
台湾は意外と小さい 中国はデカい
それが一番なのかなと思う


満州里は鉄道の終着駅なのだという
時々乗っていた地元の電車、行ったことのない終点の街
巨大なマトリョーシカを模した建物、日常的に見ることのない場所 決して賑わっている場所でもない


つまるところ『秒速5センチメートル』における栃木に近いのかもしれないし、『ライ麦』におけるコロラドかどこかの田舎のガソリンスタンドなのだろう


個人的な感想だが、原作はかなりサリンジャーっぽいところがある 中上健次っぽいところもあるのかな
だから僕は象=神というのはあまり賛同できなくて、どちらかと言えば 象≒セントラルパークのあひる なんじゃないかという感覚がある

 

棒で突かれても、なおも座っている象
自分たちと同じように、疲れているだろう象
諦観したような、それでいて見透かすような眼を、象がこちらに向ける想像をしてみると、彼のその諦めや疲れややるせなさが、自分のそれとリンクして、理解してくれそうな、自分の何もかもを宥めてくれるような予感がしてこないだろうか

象が座って何を考えているの それを知れたなら、何か大切なものを得られるのではないか

ずっと何もかもが憎らしく、我慢ならないし、破壊したくなるけれど、それよりもただひたすらに、どうしようもなく辛い

どこにいても、何をしていても、いっさいがうまくいかなくて、何かに当たって、誰も彼も聖人ではないから、少しずつぶちまけて、他のところでバランスをとって、なんとかなんとか生き延びている

それがいつの間にかすれ違い、すれ違いが積み重なり、僕らそれぞれに破滅をもたらすのだ

そしてそれが我慢できなくなったときに、きっと僕らは会いたくなるのだ

象のようなもの

圧倒的なケアラーに 

 

"誰か"を殺したくなってしまうような気持ちを否応なく思い出せられてしまった
やっぱ人間をぶん殴る時は金属バットに限るなあ


まぁ、しかし何もかもを破壊してしまう破壊衝動は、同級生の蛮行として幕切れを迎え、きっちり片付けられる

この辺りはもちろん暴力の虚しさでもあるし、傲りについての話でもあるし、そして本当に胡波監督の優しさだと思う

 

映画では原作と異なる終わり方をする


最後の叫びは、僕らを引き裂かんばかりの叫びなのか、それとも希望のラッパなのか明確な答えは出せなかった

が、それでもやはり、訳もわからず涙してしまうような、そんな何かを湛えた咆哮だったのは確かだ